第1部 先輩たちが実践する定年後のライフワーク事例集
1.「団塊の世代」概論(田口)
神田雑学大学は三上卓治さん(現会長)が吉祥寺で日曜講座として開講されていた「吉祥寺雑学大学」が源流で、1999年の11月に発足しました。
参加者は退職した方が中心で、自分がやってきた専門分野の話や趣味で取り組んでいることなどについて毎週金曜日に定例講演会を開催しています。
講話の内容をマルチメディアコンテンツにしてインターネットに公開しています。金曜日の定例講座は一方通行型だが「土曜講座」は来場者とも
双方向で意見交換ができる時間をとって、歌舞音曲などのパフォーマンスをやるスタイルで開催しました。しばらく中断していましたが、
今回再開することになりました。
前回(2003年)も団塊の世代の方々に参加いただいて「団塊の世代の責任と使命」をテーマにしてパネルデシスカッションを
開催しましたが、今回は今年は「2007問題」として話題になっているので再度「団塊の世代」をテーマにしたパネルデシスカッションを
企画しました。今回のパネリストは松平さん、上野さん、和田さん、鈴木さん、にお願いしました。
「団塊の世代」の定義としては、昭和22〜24年(1947〜49)生まれの人たちのことを指します。
堺屋太一の小説「団塊の世代」で命名されて、有名になりました。小説では人口が急激に増加した世代なので、いろいろな社会問題が発生し、
日本の将来に「大きな不安を招く」世代として描かれました。
(配布した年表(フォーブス日本語版2004-3月号から引用)を参照しながら)
時代背景
団塊の世代の生活環境の変化は実にめまぐるしく、急激な変化だったにもかかわらずそのような変化を
「柔軟に」受け入れてきた世代である。小学校時代にはまだ白黒テレビもなかった。街頭テレビがあって群がった。テレビが普及しだした
のは1958年の皇太子ご成婚のときから。
ボウリングがブームになった。1964年には新幹線が開通して、東京オリンピックが開催された。1970年には大阪万博が開催された。
1969〜72年にかけて反体制運動が活発になった。
団塊の世代の「生い立ち」を追いかけてみる。(参考:ウイキペディア
「団塊の世代」)
学齢期
幼い頃から学校はすし詰め状態となり、教室不足を招くほどで、学校で知らず知らずに競争を繰り広げた。
ただし、大学受験についてはまだ大学進学率は高くなかった。
青年期
都市部の若者を中心に大学改革やベトナム戦争反対の反体制活動を繰り広げ、一部は新左翼となって全共闘運動など急進的な活動を行った。
しかし、暴力行動に走ったあさま山荘事件や内ゲバなどで反体制組織に対する世間の目が冷たくなると、急速に「しらけ」が進み、
学生運動から大多数が手を引くことになった。一方、高度経済成長の後半、地方の中卒の若者は働き口の少なさのため、東京や大阪などの
大都市へ「集団就職」した。彼らは「金の卵」と呼ばれ、工場や商店などで雇われた。
家庭を持った時期
団塊の世代が家族から独立して家庭を持つようになると、著しい住宅不足を招いた。
この対策として、大都市の近郊には数多くの「核家族向け団地」が建てられた。
大手企業は「集合住宅タイプの社宅」を構えた。その周辺に生活物資を売る商店が集まり、衛星都市と
呼ばれる中都市ができた。これによって大都市を取り巻く都市圏は大きく広がった。
「都市圏の広がり」に伴い、通勤のための交通網の整備が急がれ、鉄道の輸送力増強や新線建設、道路の新設や拡張が相次いだ。
団塊の世代の子供たちが誕生した1971年から1974年にかけて第二次ベビーブームが起きた。
第二次ベビーブームで生まれた子供を「団塊ジュニア」と呼ぶこともあるが、団塊ジュニアには団塊の世代以前の世代の親を
持つ者も数多くいる。結婚して子供をもった家庭は「ニューファミリー世代」呼ばれ、以前の世代の家庭にはない(家父長的ではない)
家庭価値観を持った。
中年期
折からの不景気と年功序列制度による既得権益化した高賃金で日本企業の収益性が大きく損なわれた。
この労務費負担が、1990年代から2000年代前半の若年層の大規模な就職難の遠因となった。
リタイア期
2007年から2010年にかけて、団塊の世代が一斉に定年退職をするため、年金制度に多大な混乱をもたらすと予想されている。
多量退職によるベテラン職員不足を回避し、技能継承のため、定年延長、再雇用等で乗り切ろうとする企業がある一方、彼らの蓄えた
技術や能力、人脈を自社で生かすべく、団塊の世代の人材を獲得しようとする企業も現れている。こうした、この世代が及ぼす多大な
影響を「2007年問題」と呼ばれている。
団塊の世代のこれから(予想) (参考:「サンデー毎日」1997.10.12号)
1997年の週刊誌「サンデー毎日」の記事「推奨『団塊銘柄』」の中で団塊の世代の退職後のライフスタイルが予想され、それに関連する会社の
株が「推奨銘柄」として紹介されました。
趣味おやじ:自宅を売却して田舎に住む。焼き物、漆、書、などに没頭。作品の販売、など。
放浪おやじ:やり残したことをするために旅に出る。帰国後は語学教師、旅行記の執筆、など。
ウンチクおやじ:「これからは人の役に立つことをしたい」派。自宅にミニ農園を作り、園芸教室をする。ボランティアで浅草の観光
案内をする。
執念おやじ:「まだまだやれる」とばかりに、いまの仕事を継続する。高齢になったことを認めたがらない。
ロマン派おやじ:「人間なんてちっぽけな存在だ」といいながら天体望遠鏡を覗く。突然ピアノ教室に通い始める。
2.事例1 ミュージシャン活動への転身(松平)
(自主制作CDを再生しながら)
今聞いていただいているのは私が会社員時代に自主製作したものでタイトルを「Musician at heart」にしました。
「心意気はミュージシャン」という意味です。CD製作時に、自分は「本当は」ミュージシャンだという意識がありました。
その後宮仕えは辞めて3年前に「本当に」ミュージシャンに転身しました。
簡単に経歴ですが、昭和21年(1946年)生まれで「団塊世代」の1年前生まれになります。
子供のころから音楽好きで、音楽だけは成績もよかった。10才ころからピアノ、中学時代にクラリネットを習いました。
大学では音楽部に在籍して管弦楽団の一員でしたが同時にジャズバンドもやっていました。当時は、ベンチャーズ、ビートルズや
フォークが全盛でしたが、そういう種類の音楽に対する「反発」もありました。卒業するころにはプロのバンドからのお誘いも
ありましたが、最終的には音楽は仕事にしないで趣味にすることを選択して通信会社に就職しました。
会社では国際部門の仕事に従事したために海外出張や駐在が頻繁にあって、文字通り世界を飛び回る生活でした。
入社後16,7年経過したころに学生時代にバンド仲間だった田口さんからサラリーマンたちのジャズバンドにお誘いがあり、
時折参加することにしました。このことがきっかけになって、自身としても再び「音楽」とのふれあいが始まり、
さらにCDの自主製作なども行い音楽演奏活動が一層活性化しました。このころから自分は「本当はミュージシャンなんだ」という
思いが強くなりました。
会社ではまじめに働き(笑)、48才で役員になるなど、出世も果たしたのですが、その後会社の合併などがあり、環境も会社の雰囲気も大きく変化して
自分にはそぐわなくなってきたために54才で役員を退任し、自主退社することを決意しました。一時的にミュージシャン活動に専念する方向に進み
かけましたが、周囲から「まだ早いのでは?」という声もあり、外資系の通信会社に再就職しました。しかしここも2年間で退職し、57才から現在
(60才)までは実質的にミュージシャン活動に専念してます。
毎月10日〜15日のライブをこなしていますが、夜になると仕事に出かける、などサラリーマン時代と生活時間が大きく変わりました。
プロの人たちとも共演していますが一方で従来からのアマチュアバンドでも演奏しています。家内は、元気で若い間に「好きなことをやれば」と言って
応援してくれましたが、実はあきれている?のかもしれません!いずれにせよ恵まれています。
3.事例2 郷里に帰って和食器のお店経営
ーその準備から開店までー(上野)
神田雑学大学ではホームページのコンテンツ制作をしています。1947年生まれで今年還暦です。
「団塊」と呼ばれることに大きな抵抗があります。私たちの世代を「団塊の世代」と名づけて喜んで?いるのは商業ベースで
仕事をするマスコミ関係や出版社の人たちだけです。
私の郷里(島根県)の実家は2007年に世界遺産に登録される石見銀山の近くにあります。
実家が旧家で跡取り(長女)なので、蔵に大量の和食器が保管されていましたが数年前に父や母が相次いで亡くなったのに伴い、
私の代で処分することを思い立ち、和食器のお店を開店することにしました。100年前位から家にあるが保存状態が良い。
(お店の案内チラシ:参照)店の屋号を「下博多屋」にしました。祖先に博多の豪商で神屋寿禎という人がいたことに由来
してます。神屋寿禎は後で話す石見銀山の発見者です。私の苗字「上野」はウエノと読みますがカミヤとも読めます。先祖が
「神屋」の血筋が絶えることがないように「上野」も使ったと伝えられています。
曽祖父が石見銀山を管轄する会社の鉱山所長をしていたので、当時は大勢の来客がありそのために大量の和食器が用意されていました。
茶道の石州流の家元もしていました。築後45年の自宅の一部をお店のスペース用にしました。古いクローゼットを直して
展示用の棚に転用しました。部屋の棚などのペンキ塗りは自分で、食器棚、テーブル、部屋の装飾(天井や壁に布を張る)
オブジェなどは家ある物を使いました。なるべくお金を掛けないようにしました。小物類の仕入れや管理にはインターネットや
パソコンを使っています。仕入れ品は上限を決めています。
石見銀山の紹介。アクセスは出雲空港からバスで出雲市へ、出雲市から山陰線で大田市に出て、さらにバスで大森に行きます。
石見銀山は幕府直轄の銀山で世界の銀の産出量の3分の1を産出したところです。当時の世界地図にもSOMAという地名で記載されています。
先に話した博多商人の神屋寿禎が1526年に発見し、朝鮮からつれてきた職人を使って「灰吹き法」と呼ばれる銀の精錬法を紹介しました。
「灰吹き法」は銀と鉛などの不純物を分別する方法です。石見銀山の役人や職人、技術者などは金山が有名な佐渡にも派遣されて
活躍しました。石見銀山がある大森の町並みは地役人と一般人が一緒に暮らしていた(江戸時代としては)珍しい町並みとして現在も
保存、維持されています。詳細は島根県のホームページなどに公開されているのでご覧ください。
http://www.iwamigin.jp/ohda/minasdeplata/ginzan/index.html
現在は自宅がある千葉県柏市と郷里の島根との2地区居住です。和食器のお店以外の活動としてはパソコンのボランティア活動や地元で
コーラスの会「歌声広場 ブーケ」のコンサート開催を支援する活動などをやっています。
4.事例3 ホームページ制作とインターネットの活用(和田)
ニフティサーブの会議室「エフメロウ」時代からパソコンに親しんでいて、当時からのお仲間だった三上さんにお誘いいただいて
1999年11月の発足時から神田雑学大学に参加しています。25才でリウマチに罹り、障害者(1級)になりました。
自宅でできることはないか探してみてホームページのコンテンツ制作にチャレンジしました。
神田雑学大学のホームページは今日の講演者の上野さんも含めて4人で交代で作成しています。
それ以外に現在は自身のページも含めて4件のホームページをお手伝いさせて頂いています。
テキストや画像をいただいて、自身でデザインしたページが完成したときの喜び、感動はとても大きくて「ドキドキ、ワクワク」の
連続です。マウスでクリックすると星や花がダイナミックに散らばるJavaスクリプトという技術で制作したときなどは最高です。
インターネット上には各種の支援サイトがあるので制作に必要な素材はここから取り込んで作ります。希望の制作が完成したときの
達成感は最高です。自分も楽しみながらお手伝い出来て、人様に喜んでもらえる。これが私の「生きがい」になっており、
元気の源になっています。
新しいソーシャルネットワークサービスmixiの紹介。最近はmixiに熱中しています。mixiは招待型のネットワークで若い人たちを中心に
急速にユーザーが増えています。自身のホームページが簡単に作れて日記や写真を自由に公開できますが、誰かに「招待」して
もらわないと使えません。利用者の年代も若年層からシニア層にまで拡大してます。登録ご希望がありましたら遠慮なくご一報ください。
私から招待メールを差し上げます。
インタネット使用時の「小ワザ」の紹介。
クイック登録をするとタスクバーからソフト(Internet Explorer)を起動したり、閉じたりすることが出来ます。
これはデスクトップ上でソフトをいろいろ広げている時便利です。
まず、タスクバーの上で右クリックをします。プロパティ画面で「クイック起動を表示する」にチェックを入れます。
これでOKです。 スタートボタンの横に起動ボタン「Internet Explorer」が表示されます。
インストラクション用の画像を公開しますので参考にしてやってみてください。
5.事例4 生涯教育とNPO活動(鈴木)
松平
自分も(昭和21年生まれで)団塊の世代に近いので同世代の人数が多い。小学校では「2部授業」「60人学級」なども経験した。
これまでは「人数が多い」ことが(競争が激しかったりして)ディメリットになっていたが、ここにきて「人数が多い」ことが
「メリット」になってきた。例えば高齢者のための駅構内エスカレータ、エレベータの設置、などの「バリヤフリー」環境の整備など。
さらには、シニア/シルバー向けサービス、商品の開発、販売、など、一般社会が高齢者を「迎え入れて」くれるムードになってきた。
(60才以上の人の映画鑑賞は1000円、などもその一例。)高齢者向けのマーケットが明らかに拡大している。有料老人ホーム
、高齢者向け「楽器の教室」byヤマハ、なども好例で、かってのフォークソング世代をターゲットにして新しいサービスや商品が多数
開発されている。こういう事例からわかることは「人数が多い」からこそ、新しいサービスや商品を開発する価値があるわけで、まさに
「人数が多い」ことが(ここにきて初めて)この世代にとって「メリット」になってきた。
先日地域の社会保険庁に出向いて、自分に支給される「年金」のことも調査してきたが、どうやらここ10年から15年くらいは心配する
こともなさそうである。一方で政府も「再チャレンジ」政策とかで「まだ働きたい」と思う人たちには、雇用の継続や再就職の道も支援
してくれるらしい。いろいろな選択肢が選べるので自分が「やりたい」ことを探して積極的にチャレンジしてみたらよい、と思う。
一方、社会貢献の観点から、団塊の世代は「ひもじい」時代を生きてきたので、食べ物を残さない習慣、ツギハギの着物や靴下を身に着けた体験など、から
生活品や食べ物の「大切さ」「もったいない」という感覚などを実感している世代でもある。「もったいない」は世界にも通用する言葉に
なったそうで、実体験に根ざした説得力のある食糧問題、環境問題の改善、解決に是非取り組んでほしい。
上野
夢をもってほしい、その夢を実現する努力をしてほしい。自分は若いときから喫茶店をやりたかった。その夢が(店をもつということに
ついては)実現できた。夢を実現する努力をしていれば元気でいられる。団塊の世代はこれから自由に使える多くの時間ができるので、
若いときに抱いた「夢の実現」に使えるはずなので、是非それにチャレンジしてください。1部で話したボランティア活動のために地域の
福祉会館に行く機会があるが、地方の自治体ではボランティア活動に参加してくれる人を(必ず)募集しています。いずれは自分も
お世話になるはずなので、まだ動ける間は是非ボランティア活動に参加してください。
子供たちにあまりお金を残さなくてもいいと思います。
和田
言いたかったことを全部?上野さんが言ってしまった。(笑)
何でも楽しんでやることが大切です。障害者のサポートなども楽しみながらできるとよいと思います。
うまく言えなくてすみません。
司会(田口)補足
和田さんは障害者(車いすの生活)なのでですが、ジャズバンドのライブやカラオケの会にも積極的に参加されて、人生を大いに
エンジョイされています。団塊の世代の中には時間があっても「することがない」「やりたいことが見つからない」などと嘆く人が
ありますが、和田さんにしてみれば(健常者の)あなたが「何を言ってるの!」と言うところでしょうか?
和田
鈴木
団塊の世代は経済的には年金なども心配なさそう。他人の役に立ってほしい。能力も十分にある。時間もお金も「使い上手」に
なってほしい。ためこむばかりではこの国のための経済効果を生まない。団塊の世代は以降の世代から「らやましがられる世代に
なるはず。世代間格差が生じる可能性がある。
快く「面倒を見て」もらえるようになるには「かわいらしさ」も必要。子供たちの「お荷物」にはならないように。
父母が逝った後、家の中にあるものを整理したが大変だった。シンプルに、シンプルに。最後は「高砂」の翁媼のように
身辺の掃除をし終わってから逝きたい。
司会(田口)補足 (雑誌Forbes2004-3参考)(堺屋太一談)
団塊の世代がシニア市場にデビュするときに日本経済は再生する。退職時には猛烈な消費ブームが起こる。
団塊の世代は「金持ち」「知恵持ち」「時間持ち」。
韓国も中国もやがて「高齢化社会」になるが、日本の団塊の世代が世界のファーストランナーになる。
日本の団塊の世代が自分たちに「ふさわしい仕事」「ふさわしい生活」「ふさわしい生き方」をして
世界のファーストランナーとして新しい文化を築くことに期待する。
来場者からのご意見、ご感想
(敬称略)
早坂
いい話だった。是非書き残してほしい。「団塊の世代」は生活と心の自立ができている世代。
飯島
60才はまだ若い。昔とはイメージが変わった。子供のころは60才になりたくないほど年寄りに見えたが、実際になってみると
まだいろいろやれそうで、悪くない。(笑)
宮原
日経新聞を見て参加した。昭和22年生まれ。12月に60才になり会社を退職した。初めて「神田雑学大学」に参加した、とても参考になりました。
竹橋
化石の採取を趣味にしている。化石には生物が生きた痕跡がある。講演を団塊の世代の話に限定しない方がよかったのでは?。
高齢者に共通の話題、生き様を探ってほしい。実際問題としては、これからまだ親の介護など新たに抱えなければならない問題も多い。
吉田
最近の父兄会などで見られる子供たちの母親の発言や態度に疑問を感じる。その「母親たち」を育てたのは団塊の世代かもしれない。反省が必要。
司会(田口)
団塊の世代は最新のIT能力やミクシィを活用できる「新しい」高齢者たち。退職後も「横の」つながりを自由に活用してダイナミックな
活動ができるはず。大いに期待したい。本日はありがとうございました。
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